昭和44年02月05日 夜の御理解



 真をもって願うとか、真を表に現す手とかいった様な事を申しますが、そのう真を持ってなんとか、真を表に現わすとかという様な、真という事はどういう様なことがらかと、まぁいろいろに説かれておりますけれども、私は真というのは、神様のお喜び頂けれる心だと思うんですね。真というのは、神様のお喜び頂けれる心。ですから限りなく美しゅうなりたいという様な心、そりゃそのまま真ですがね。本気で親孝行したい。これはそのままが真です。天地の御恩をわか徳を知らしてもろうて。
 その天地の御恩徳に答え奉ろうという心それが真です。てすから真をもって願うというても、そのそういう願いと言うものが腹の底にあって、そういう願いを持ってからの願じゃからにゃ真をもっての願いがってことにならないんです。ただ自分の我情やら自分の我欲やらで、私は真をもって願いますというてもそりゃまことじゃないです。ただ我情我欲で願ようるという事になる。真とは私はね天地の感動まします様な心、いうなら神様が喜んで下さる様な心ね。
 そこでまぁならここでね合言葉の様いわれる、「限りなく美しゅうなりましょう」と、いや限りなく美しゅうならせて頂きたいという、そういう願いをもって願う、これが真をもって願う事になるとですね。いわゆる神様がお喜びになる様な心を持って、願わなければ真をもって願うという事にはならんのですから。ここでひとつお互いが猛反省しなければなりません。様々な事を願っています。なら今の様な心で願ったちゃいかんちゅう。例えば根本的にですね、本気で限りなく美しくならしてもらうぞと。
 本当に本気で親孝行さしてもらいたい、そういう心で願うそれが真。今日熊谷さんが昔ぁしの「真愛」と次このう真の愛いう、甘木の今こりゃもう廃刊になっとりますけれど、当時今甘木の御比礼が隆々とある時に、出よった新聞になるんです。昭和二十六年、昭和二十六年の二月の二月号の司会です。なんでもこう付録のあると値打ちが出て参りますね、それをなら持って来て頂いたつが、親先生の講話やらお歌等がこおへ出ておりますが、しかし学問があるとかないとかじゃないし。
 でもですねこのう歌なら歌を教歌なんかを読んでおられますよ、その深さというか、その触れておられるところが素晴らしいと思うんです。ここにあのう親先生ぼんさつきして、このうお詩が載っておりますけどね。「正しくも世を渡らんと祷りても、真は朝の柏手に響く」という。もうそのう正しくももう世を渡らんと祈り切るところですね。ここは先生の御信心にひきうけたもの。真は朝の柏手に響くと言うのは、もう信心のいよいよ深さに触れておらなけれどこの様な言葉がここには出て来ない。
 もうあのうこの教会の詩としての素晴らしさも、この最後のここんところが素晴らしいと思うですね。真を朝の柏手に響く。実にそのうその深さをここから、先生の信心の深さを感じますね。なんかしら朝を前にして柏手パンとね、それが真に響くんだと自分の心にも響いてくるんだと。それはもうどういう事かというと、正しく世を渡ろうと思うそういう祈り。それが真であると同時にですね、そのなら柏手にね、このう響いて神様にも通う親先生の心の底にも響くといった様な感じですね。
 私はもう先生の詩も随分いろいろと、聞き知っておりますけれども詩としてのあのう深さというか、いやもうこれこれ以上の詩を読ませて聞かせて頂いた事がない。安武先生の詩にいろいろありますよね、沢山作ってあられます、その中でも私はこれを。真を朝の柏手に響く。というところなんかね。この中からでも例えば今日私が申します様な事が分からして貰います。正しく世の中を渡ろうと思うというその心がもうすでに真なのです。しかもそれが祈りになっておる。
 本気で正しく渡らして頂こうという祈りなんです。その真真心の柏手の響きがです、天地の響き、神様に響く、安武松太郎の心の底に響いておる。聞く者をしてまた聞く者の心に響いてくる。私は真とはそんなものだと思うんですね。だから真をもって願うとか、言うけれど、ただね神様にお喜び頂ける様な心をもって、願わなければ真で願うという事はならん。天地を貫くという事にはならないということになるのですね。
   どうぞ。